桐田和雄インタビュー
写真家として独立して30周年。桐田和雄のこれまでの歩みや、今後の活動テーマなどをインタビューいただきました。
何をやってもすぐ飽きる性格だったんだけど、
写真だけは違ったんですよ。
―写真家として独立されて2014年で30周年でしたね。子どもの頃から写真家になりたかったんですか?
4人兄弟の末っ子だったんですよ。子どもの頃、銀行マンの父から、「好きなことをしていいよ」って何度も言われてた。末っ子だから好きにさせようってことだと思うけど、言われるほうはプレッシャーでね(笑)
やりたいことが見つからないまま、とりあえず東京の大学に行ったんです。
大学に入ってはみたものの、入った瞬間「何か違うな」と。70年安保(闘争)の時代っていうのもあって、雰囲気が違うと。
で、学校にはぜんぜん行かなくなり、田舎の親友が奈良で彼の兄夫婦のところに住んでいて、ほとんどそこに転がり込んでたのね。お兄さんが店舗デザイン等のアーティストで、奥さんが宝石デザイナーという夫婦で、その家にはいろんなアーティストの卵たちが集まるたまり場だった。
写真家のBAKU斉藤さんもそこに来られていて。ある日斉藤さんが「手伝ってみないか?」と。そこで原宿の事務所におじゃまして、写真の現像とか整理とか撮影を手伝うことになったんですね。アシスタントをしているうちに、だんだん写真が面白くなってきた。それまで何をやってもすぐ飽きる性格だったけど、写真だけは続けられそうだなと。
―それまで、写真は撮ってなかったんですか?
家にカメラはあって、撮ってはいたけど。仕事にしようとは・・・。
写真家になりたいと本気で思い始めて、島根の実家に帰って「大学を辞めて写真の学校に入りたい」と父に伝えると、「大学をまず出ろ」と。それで、足りなかった単位を必死にとって(笑)大学を卒業した後で、もう一度写真専門学校に入りなおしたんです。
―なぜ東京から大阪に?
大学時代に東京から奈良に通っているうちに、関西の雰囲気が気に入ったの。それで、大阪の学校を選んだんです。
写真がとにかく面白くて。学校に通ううちに、「卒業したらプロデビューしよう」と本気で思っていました。そう思い込んでるから、商業写真(広告やプロモーション用の写真)には興味もなくて授業にも出なかった(笑)
卒業制作のためにあちこち旅行して写真を撮って、田舎に帰って寒ブリ漁を撮ったりして。自信満々に卒業制作を学校に提出したら、評価されなくて、あれ?と。
―そこで現実を知ったと。
そうそう。
で、こりゃいかんと。プロになれないなら、まずは飯を食わにゃあいかんと。そこで大阪のフリーカメラマンに丁稚に入って広告の仕事を勉強しました。
写真を学んでいた大阪の学校にはデザインの学科もあって、そこで知り合った広島出身の「彼女」がいて、いまのカミさんですけどね。1年がんばったからと、もう彼女を追いかけて広島へ戻っちゃいました。
―なるほど。
その後、広島の広告写真スタジオに移って7年ほどいました。ある時期、そこのチーフだったカメラマンと2人で独立しようかなと思い、これまた父に話すと、「独立するのはいいけど、それだとお前はずっと2番手だぞ」と言うんですよね。独立するなら一人でやれと。
―銀行マンとは思えない返事ですね・・・。
親父は豪快な人で、面白い逸話がいっぱいあって・・・。漁港に近い銀行に勤めていた時は、魚市場のあたりを毎朝散歩して出勤して、第一声で「今日は忙しくなるぞ!」と大声で言うんだって。大漁で漁師の方からどんどんお金が入って来ると・・・。
末っ子の自分に対しても「お前とは一番話す時間が短いから一緒に風呂入ろう」とか。子どもなのに、会社のこととか、どんなことにでも「お前はどう思う」って聞くんですよね。考えさせようとしていたのかもしれない。
―お聞きすると、カリスマ性を感じますね。
いままでいろんなターニングポイントで親父の声が出てくるんですよ。
結果、独立して30年・・・なんとかやって来れた。
親父の言うとおりだった部分もあって、ありがたいというか、尊敬していますね。
作品として写真を撮るためには、背景や意志が写真に表れていないと。
それはパッと行って撮れるもんじゃないんですね。
―お仕事をされる時、心がけてきたことは?
丁寧な仕事をする、かな?
独立した後、まだ駆け出しの自分を使ってくれた食品会社の広報責任者の方が「お前の取り柄は仕事が丁寧なことだけだ」と言われて(笑)
海外撮影とか、いろんな大きな仕事もしたり、本を出版したりもしたけど、いつも基本は「仕事は丁寧にしよう」と思ってます。
―今回、ホームページには、商業写真だけじゃない作品も掲載していますが、これらの作品をどう考えて撮って来られたんですか?
写真家とかアーティストは、自分に見える、自分だけの絵があると思うんです。それを街を歩きながら、人と話しながら、自然の風景の中で必死に見つけるっていうかね。写真を撮るその前に、まずは「見る」ことを日々大切にしたいと思っています。
今は撮りたいという気持ちが起こるまではあまり撮らないようにしていますね。シャッターを押す前に、街や人、自然に馴染む必要があるなって思うんです。
―確かに、旅行で写真をたくさん撮っても、その割には1枚も「使えない」と思うことがありますね。このインドの写真も「街に馴染んで」撮ったんですか?
ここは、インドのシャンティニケータンという街で、詩人のタゴールが興した学校がある場所。子どもたちが一生懸命がんばって学んでる。そんな街と人を撮りたくて、毎日歩いてた。話しかけて仲良くなると、いい顔になるんですよ。
この写真も、こういう構図が偶然見えて、話しかけてこっち向いてもらっただけ。その瞬間がいつ来るかというと、街を歩いていて毎日過ごして、お店の人と仲良くなったりとか、そうしているうちに見えてくる。
森の写真を撮る人(伊勢神宮を撮影されている西澤正明さんの言葉ですが)は、森に入ってしばらくは鳥や動物たちが警戒して、物音がすべて消えて静かになるんだそうです。そこにしばらく何日か佇んでると、だんだん森に馴染んでいくと言うんですよ。まるでお酒を飲んで酔いが回るように、時間がたつと自分も森の一員になる。そこでシャッターを押すと、違うものになるっていうことらしいです。
―それが「馴染む」ということなんですね。ところで作品を拝見していると、笑顔の写真の印象が強いですね。
うーん、人が好きだし、とっても興味があります。
地元の歴史や文化を学んで消化した写真を撮って行きたい。
―これから、どんな作品を撮りたいですか。被写体のテーマとしては何を?
2年前から上田宗箇流のお茶を習い始めたばかりなんだけど、広島の歴史とも深い関わりのある家元なんですよね。お茶を通して、広島の素晴らしい歴史や背景を学び、稽古も積み重ねて茶道の写真を撮ってみたいと思っています。
あとは瀬戸内海。瀬戸内海には、日本の海運の歴史があるでしょ。それを追いかけて撮ってみたい。これも歴史や文化をもう一度学んで、いろんな人からお話も聞いて、それを消化したものにしたいと思っています。
―これからは「この人ならこの内容を理解してくれるだろう」で仕事が依頼される時代になってきたと思うんです。だからこそ、このサイトには作品もたくさん出ていますけど、こうやって桐田さんが「どう考えているか」「どんな人か」を伝えるものがあったほうがいいと思って、こうやって今回もインタビューをさせていただいているんですよ。
そうそう。いつもそうなんですけど「これから、今から」と思っているんです。だから過去の作品は過去のものだけど、ホームページを見ていただいて、何かが伝わるといいなと思っています。よろしくお願いします。
2015年1月キリタスタジオにて 聴き手:久保浩志(しおまち書房)